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ベルリンの壁を訪ねて

久々のブログになってしまいましたー。
ブログではこれから西ヨーロッパですが、
リアルタイムでは現在アフリカのナミビア。


ザンビア・ジンバブエ国境のビクトリアフォール!

ケニアからタンザニア・ザンビア・ナミビアと陸路で移動しているため、なかなか満足にネットにつなげず、
そもそも電源も確保しにくい状態なため、
時間はいっぱいあるのにブログを書けていない、というジレンマに陥っています…(>_<)
ブログとの時差はもうすぐ3ヶ月…
早く書かないと記憶が薄れるぅぅぅ(--;)

フェイスブックでは旅のページを作ってリアルタイムを報告しています。
こっちもぜひ「いいね!」よろしくおねがいしますー!
あと少しで400いいね!です♪
ありがとうございますー*\(^o^)/*



さて、21カ国目、ドイツ!



今回の旅ではドイツはベルリンのみ、2泊3日。
本当はもっと行きたいところがあったのですが、日程と金銭に限りがある身。
ドイツはまたじっくり来る機会があるだろう、と軽めの予定になりました。

ヨーロッパに入り、西に西に進むにつれて物価がどんどん上がり、
「明日もあればあさってもあるさぁ~」
と悠長なことを言ってられなくなりました。

ぱっと観光して、ぱっと移動する。

生活をするようにその国の文化に触れたい、という願望はありますが、なかなかなかなか…
行き先をしぼって、その分一都市に長く滞在するという旅もいいのですが、
「せっかくここまで来たんだし、じゃあ、あそこもここも…」
と貧乏根性が顔を出し、結局バタバタしています(^_^;)

さて、バタバタのベルリンでは私がベルリンの壁、ダンナさんはサッカー観戦が主な目的になります。

ベルリンの壁。

第二次大戦後、敗戦国ドイツは連合国によって分断統治されることになります。
アメリカを中心とする自由主義陣営はドイツの西側を(=西ドイツ)。
社会主義陣営の親分、ソ連は東半分を(=東ドイツ)。

ベルリンは東ドイツ領内に存在していますが、ドイツの首都だった都市のため、このベルリンも西と東に分断して統治されることになります。
つまり、西ベルリンは東ドイツ内にぽっかり浮かぶ孤島のような存在でした。
(私はしばらく西ドイツと東ドイツの国境上にベルリンはあって、で、壁があったんだと思っていました…)

その東西ベルリンの交通を全て遮断し、ぐるっと取り囲むように壁が作られ始めたのが1961年。
東西分裂から16年後のことです。
それまでは東西ベルリンは道路や地下鉄で日常的に行き来できていました。

この壁の一番大きな目的は、「東ドイツの住民を西ドイツに逃げないようにするため」でした。
自由を基本理念とする西ドイツは、自由競争により技術と経済が発展し、世界第3位のGDPを誇るようになります。
一方、平等を基本理念とする東ドイツはみんなが足並みをそろえる計画経済で、おちこぼれは出ない分、傑出した存在も出ず、大きな発展はなく停滞していきます。
そして経済や生活を統制するため、言論の自由が制限され、監視・管理の社会になります。

そんな中、東から西に向かう人が続出したのです。
これは国家の否定で、国としては何とかして止めなければなりません。
その手段としての壁だったのです。
壁の総距離は155kmに及びました。



壁ができると、それを強行突破しようとする人が現れ、そこに悲劇が生まれます。
東ドイツの人間が、東ドイツの人間に銃を向けることになるのです。

壁を越えようとして殺された人は192名。


残されてる壁に描かれたアート
年号の上の花が亡くなった人を表しています


逮捕された人は3000人以上なので、なるべく殺さないように、という意思は感じられます。

しかし、それより多くの数が西への脱出に成功している事実を初めて知りました。
その数5000人超!
ベルリンの壁博物館では、ありとあらゆる手段で壁の突破を図ろうとした人たちの足跡が残されていました。

掘った人
飛んだ人
往来を認められた車の座席の下に隠れた人
何度も西ベルリンへの正規の旅行許可を取り、ちゃんと帰ってきて信頼させた上での最終的な亡命…
手品師も真っ青なトリックです。

西ドイツは亡命してきた人を受け入れるため(自由の国だから)、亡命者一人につきいくら、と東ドイツにお金を支払っていました。
これが結構な金額で、東ドイツの財政を支えていたため、無理して壁を越えなくても政治犯として逮捕されれば西ドイツに売ってもらえたらしい…
西ドイツは25万人、東ドイツから「買い取って」いたんだそうです!
う~ん…もんのすごく苦労して壁を越えようとしなくても良かったんでは…???

そのベルリンの壁は思ったより低くて驚きました。


私との比較で3mちょっとくらいだと思われます

パレスチナの分断の壁の方がはるかに高く、はるかに悪意のある壁なことが実感できました。

もう壁のほとんどは撤去され、町の発展に差は見られず、どこに壁があったか説明なしにはわかりませんが、一部保存されているところもあります。



こっち側は西ベルリン側。
市民がこのいまいましい壁に落書きをしていたのは有名な話です。
壁の向こうに見えるベンツの社屋は旧東側に建てられています。
(東側の再開発をした際安く払い下げられたらしい)


トラバントが壁を突き破る図

こっち側はその裏で、東に面していた部分。
こっちは壁から数十mの場所から市民が近づくことはできず、当然むき出しのコンクリートのままでしたが、
壁崩壊後、この壁を世界中のアーティストに開放し、自由に絵を書いてもらうことで平和と自由を願う場所になっています。

ベルリンの壁が崩壊したのは1989年、私が小5のことでした。
壁によじ登りつるはしを振るう人、握手をし抱擁を交わす人々、打ち上がる花火…
小学生ながら歴史が動いていることを実感をした出来事で、今でもその時のニュースの様子はよく覚えています。
(このことを授業で話すと、ものすごく古い人間を見るような目で中高生に見られます(笑))

そして大人になった今、そこに至る歴史や壁崩壊の経緯、そしてその後について調べることがものすごくおもしろい!!
「へー、あの時は実はこんなことが起こってたんだー」ってなるのがおもしろい!
わかって当時ニュースを見れてたら、もっともっとおもしろかったんだろうなぁぁぁ~!
(そんな小学生はイヤですが)

おみやげはもちろん!
「ベルリンの壁のかけら」!



こーんなちっさいかけらが1000円した(>_<)!!
でも歴史のダイナミズムを感じられる証拠として、ちょっと悩んだけど買っちゃいました。
もっと大きいものもあったんだけど、高いし、重たいしで断念。

ダンナさんはセルビアに続き、ミニカーを買っていました。
東ドイツ製のトラバント!


ダンナさんが買ったのはこれの白(チョコのおまけ)

壁崩壊の時に東ドイツからこの車が次々やってきて、西ドイツの人は驚愕したんだって。
あまりのポンコツぶりに!!

方や西ドイツはベンツやBMWが世界中を走り回ってる時代。
数十年進化してないトラバントは東ドイツの経済を象徴するものとして受け止められたのでしょう。
今はその懐かしのトラバントを運転して「ベルリンの壁をたどるツアー」とかも行われてて、街中をちょっこちょこ走っていました。
今見るとかわいー。


トラバントの行列

ベルリンは東西冷戦の博物館のようで、その痕跡を見つけながら散歩するのが楽しかったー。
その他の観光は次の記事で!

えり
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