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えりの見たバラナシ

大学の頃、ある教授がこんなことを言っていた。
「若いうちにインドとNY、両方見るべきだ」と。
世界の両極を見ることで世界の見方が変わる、
と言うことを言っていたと思う。

その片方の極、インドの中でも、最もTHE インドなのはバラナシだと言うことに賛同する人も多いだろう。

生死の混在するガンガーに、
牛が闊歩する細い汚い路地、
物乞いと不当な値段をふっかけるリキシャや土産物屋…

インドに関する情報の中で、バラナシについて触れられていないものは皆無に等しい。
それほど大きなインパクトをこれまでの旅人に植え付けてきたのがバラナシだ。

インドに行くに当たって、バラナシは行くでしょ、という思いから様々に情報を集めた。
古くは深夜特急から、妹尾河童の「河童が見たインド」、めちゃめちゃたくさんの人のブログ…

読めば読むほど、みんなの受けた衝撃に怖気づき、
一方ですでに行ったような気にもなり、
もう行かなくてもいいんじゃないか、と思ったり。

そんな頭でっかちな状態でのバラナシinでした。


そんな私が見たバラナシとは…

それは、
読んできたもののそれ以上でもそれ以下でもない、
という、少し残念な感想。

うーん…
予習しすぎたかなぁ~>_<

いろんな人の見たもの、感じたものの追体験をしている感覚で、
新たな衝撃っ!!とは行かず。
あー、これ知ってる~、とか
はいはい、これね~
みたいな。
深夜特急のバラナシ編を読んだ時の方が衝撃が大きかったんじゃないかなぁ~>_<

それでも生で感じることに意味がないわけではなく、
こんな私でも十分「なんでなんだろう????」考えさせる余地があるのはすごいところ。

宗教って、祈りって何なのか?
ヒンドゥーにおける聖とは俗とは何なのか?
様々なインド人の傾向と、翻ってじゃあ自分は?

とか、リアル巨大迷路のような小道を迷い歩きながら、いろいろ思いが浮かび上がってきた。

とにかく、バラナシを一言で表すとすると
(そもそもそれが乱暴なんだけど)
「混沌」
に尽きるでしょう。

大通りには1ルピーでも儲けちゃろう、なリキシャ。
クルマとバイクとリキシャがもうもうと煙をあげ、常にクラクションを鳴らして走ってる。

そこから避難し一歩路地に入ると、日も当たらない建物の隙間の両側にぎっしりの、同じようなものばかり置いてあるお店。
そこを行き来する様々な人、牛、犬、猿。
動物は基本ガリガリ。
牛なんて皮ごしに骨盤がくっきり見えるほど。
足元は足をおく場所を迷うほどのゴミといろんな動物(ヒトも含む)のフン。
そこをクラクションを鳴らし続けながら通り抜けようとするバイク。
ちょっとした段差には棒のような足をした人か犬が寝てる。



時々担がれてガンガーに運ばれる遺体。
クリケットをする子ども。

ガンガーまで出れば、広々とした空間に、観光客目当ての人々。
一世一代の沐浴に着飾ってやってきている人。
その横で水牛も沐浴中。
様々な方法で祈りを捧げる人。
洗濯する人、体を洗う人、泳ぐ人、見る人。
燃やされる遺体。

聖なるガンガーにたどり着くまで、ありとあらゆる「生」(元「生」も含む)があふれかえっています。
聖なるガンガーって言うけど、俗の極みなんじゃないかと感じる。

一方、ガンガーの対岸に眼をやると白い砂州が広がり、荒涼とした雰囲気。
あまりの背後の生の生々しさに、人のいない対岸に逃げてしまいたい衝動にかられる。

でも実は、対岸は不浄の地とされており、誰も住んでいない。
あっちの方が断然清らかに見えるのに!!



ヒンドゥー教にとっての「聖」は「生」であり、生命体の「生」がない彼岸は「不浄」となるんだろうか?

インドの精神世界の一端をのぞいた気になる。

ガンガーそのものより、日常の所作の中にこそ「聖」をバラナシでは感じた。
毎朝行っていたチャイ屋のお兄ちゃんの黙々と、茶道の形のようにチャイを作る姿に。
毎日昼前と夕方に聞こえてきていた宿のお祈りの鐘の音に。
通りすがりの人の神像に軽く手を合わす姿に。

そういう人々の姿の中にこそ、見るべきものを感じたバラナシでした。

えり
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